
「見える人の国」にも「盲人の国」にも属せない
視力を失うことと、盲人になることは同じなのだろうか。
Andrew Lelandの『The Country of the Blind: A Memoir at the End of Sight』(2023年)は、網膜色素変性症によって徐々に視力を失いつつある著者が、自らの経験を通して、この問いを探究した本である。
著者は10代から視力の低下を経験している。
その進行は遅く、失明に至るまでの過程は永遠とも思えるほど長い。
しかも、いつ、どこまで見えなくなるのかは分からない。
本書が書かれた時点でも著者には視力が残っている。
つまり本書は、失明した人の回想録ではなく、視機能の低下が現在進行中の人による記録なのである。
著者は自らのロービジョンの状態を、見える人の国にも盲人の国にも属せない状態として捉えている。
見える人として生活するには視力が足りず、盲人としての自己認識を持つことにもためらいがある。
そこで著者は、白杖歩行や点字を学び、視覚障害者の歴史や文化を調べ、多くの当事者と交流する。
CarrollとNFB
本書で興味深いのは、Thomas CarrollのリハビリテーションプログラムとNational Federation of the Blind(NFB)の訓練思想の対比である。
Carrollは失明によって生じるさまざまな喪失に注目し、それへの適応を支援するリハビリテーションを提唱した。
一方、NFBは、盲人に対する社会の偏見や低い期待を問題とし、適切な訓練によって自立した生活が可能になることを強調する。
著者はNFBの思想に強く引きつけられ、そこに盲人としての新しい生き方と文化を見いだしていく。
この過程を考えるうえで参考になるのが、社会学者Robert A. Scottの『The Making of Blind Men』(1969年)である。
Scottは、盲人に特徴的とされる態度や行動は、視覚障害そのものによって決まるのではなく、社会との相互作用、とりわけリハビリテーションの過程を通して形成されると論じた。
この視点から見れば、著者がNFBの活動や訓練を通して盲人としてのアイデンティティを獲得しようとすることも、一種の社会化と考えられる。
しかし、NFBが提示する盲人像も、多様な盲人の生き方の一つではないだろうか。
視力の喪失と自己の再発見
一方、社会との関係で自らのアイデンティティを模索する著者に対し、妻や子どもとの関係には、ある種の安定が感じられる。
視力が変化しても、夫であり父親であることは変わらない。
家族との間にも葛藤はあるが、そこには視力の変化を超えて続く人間関係がある。
盲人としての新しい自己を探す一方で、それまでの自己が失われるわけではないのである。
本書は、失明への適応を描いた自伝であると同時に、人はどのようにして盲人になるのかを問いかける本でもある。
著者は依然として視力を失う過程にあり、その問いに最終的な答えは出ていない。
医学的な視力の変化と、社会的に盲人になること、そして本人が盲人としての自己認識を持つことは、必ずしも一致しない。
本書は、そのずれを一人の人間の経験を通して描いている。
そして、視覚障害者を支援する専門職に対しても、自分たちの実践がどのような盲人像を前提としているのかを問い直すよう促している。
