
「安全」とは
オリエンテーションとモビリティ(Orientation and Mobility,以下O&M)訓練の目的は、一般に「安全で効率的な移動」とされている(Hill & Ponder,1976, Jacobson,1993, LaGrow & Weessies,1994, Fazzi & Barlow,2017)。
しかし、この「安全」という概念は必ずしも明確に定義されておらず、しばしば「危険がない状態」と暗黙のうちに理解されている。
一方、現実の移動環境には、階段、車両、縁石、開口部(例:側溝)など、事故につながり得る要因が常に存在している。
このような環境において「危険がゼロである状態」を前提とすることは現実的ではない。
むしろ移動とは、潜在的な危険を含む環境の中で、それらを認識し、評価し、対処しながら行われる行為である。
「ハザード(hazard)」と「リスク(risk)」
本稿では、この問題を整理するために、交通心理学や安全工学で用いられる「ハザード(hazard)」と「リスク(risk)」の概念を導入し、O&Mにおける「安全」について考察する。
ハザード
ハザードとは、事故の可能性と結びつく対象、事象、あるいは環境条件を指す(蓮花、 2000)。
すなわち、それ自体が危険の源となり得るものである。
例えば、車両、歩行者、段差や階段、歩道上の障害物、交差点形状などは、いずれもハザードに該当する。
リスク
リスクは、ハザードの存在を前提として、それにどの程度近づくかによって変化する。
概念的には、 [ リスク=ハザード × 接近の程度 ] と整理することができる(Brown & Groeger, 1988)。
したがって、ハザードが存在していても、それに接近しなければリスクは発生しない。
逆に、同一のハザードであっても、接近頻度や状況によってリスクの大きさは大きく変化する。
日本語の「危険」という語は、ハザードとリスクの両方の意味を含んでいる。
そのため、「危険がある」という表現は、危険の源が存在するのか(ハザード)、実際に事故の可能性が高いのか(リスク)が区別されないまま用いられることが多い。
O&Mにおける安全の議論をきちんと整理するためには、この二つの概念を明確に区別する必要がある。
事例による分析
事例1 窓からの転落事故
ある視覚障害者が、入寮初日に居室内で方向を取り違え、開いていた窓から転落した。
居室は2階にあり、長方形の二人部屋で、入口ドアから窓まで直線的な空間があり、その左右にベッドが配置されていた。窓は腰高の位置にあった。
当該利用者は、室内の空間を十分に認識していない状態で移動し、入口方向と窓方向を取り違えたまま、躊躇なく前進した。
その結果、窓に到達し、勢いのまま外へ転落した。
幸いにも建物外側には一階部分のひさしが張り出していたため重大な結果には至らなかったが、ひさしがなければ重篤な事故となる可能性があった。
この事例は、次のように整理できる。
ハザード:窓(開口部)
方向誤認による接近
結果:転落
窓は通常、このように接近する対象ではないため、一般的にはリスクは低い。
それゆえ、設置者にとってもハザードとして十分に認識されていなかった可能性がある。
しかし、本事例では、環境に関する認知の未形成と方向誤認が重なり、突発的な接近が生じたことで、瞬間的に高いリスクの状態が生じたといえる。
事故後には、すべての居室の窓に胸の高さの横棒が設置され、以降の転落防止が図られた。
事例2 階段からの転落事故
視覚障害者が生活する寮において、階段からの転落事故が年に数回発生していた。
この階段は日常生活の中で頻繁に使用されるものであり、利用者は日々これを上り下りしていた。
事故防止のために、手すりの使用を促し、手すりを方向定位の手がかりおよび身体支持の手段として活用するよう指導した。
しかし、すべての利用者が常に手すりを使用するわけではなく、手すりに頼らずに移動する者もいたため、事故は完全には防止されなかった。
そこで、階段の約1メートル手前に、階段幅いっぱいに簾(すだれ)を設置し、長さは通過時に必ず身体、特に顔や上半身に触れる長さとした。
その結果、階段への接近時に強制的に注意が喚起されるようになり、その後、転落事故は発生しなかった。
この事例は、次のように整理できる。
ハザード:階段
日常的・反復的な接近
結果:転落事故の反復
階段は利用頻度が高いため接近する頻度が高く、結果としてリスクも高い。
この介入は、接近そのものを減らしたのではなく、接近時のハザード知覚を確実に生起させることで、結果的にリスクを低減させた例といえる。
事例から得られる示唆
これら二つの事例は、次の点を示している。
- 晴眼者と視覚障害者とでは、想定されるハザードの大きさや性質に違いがある。
- リスクはハザードへの接近の条件によって大きく変動する。
- 認知的要因(方向誤認や注意の欠如)がリスクの発現に強く関与する。
ハザード知覚
ハザード知覚とは、「状況内から事故可能性と結びつく要因を検出し、事故の可能性を予測する認知過程」である(Brown & Groeger, 1988)。
視覚障害者は、視覚的なハザード検出が制限されるため、白杖による接触検知、聴覚情報、空間記憶、事前の現地下見、予測(preview)といった手段を用いてハザードを認知する。
しかし、これらは時間的・空間的に制約があり、特に移動するハザード(例:自転車)への対応は困難である。
主観的リスクと行動
行動は客観的リスクではなく、個人が主観的に評価したリスクに基づいて決定される。
そこには、歩行者の知覚、認知、意思決定や態度が関与している。
交通心理学では、このような傾向は「リスク敢行性(risk taking)」として議論されている(蓮花, 2000)。
Turnerらは、リスク敢行行動を「安全への配慮を欠いたまま行われ、悪い結果を招く可能性があり、社会的に望ましくないとされる意図的行動」と定義している。
リスク敢行性の違いにより、無謀、(リスクの過小評価)や臆病(リスク過大評価)といった行動の差が生じる。
これらは「勇敢」「大胆」あるいは「慎重」といった言葉で肯定的に表現されることもある。
例えば、視覚障害者が音響信号機を用いて道路横断を行う場面において、青信号の途中で横断を開始し、横断途中で信号が赤に変わる可能性があるにもかかわらず進行する行動は「無謀」あるいは「大胆」な行動といえる。
O&M訓練の重要な役割の一つは、この主観的リスクを現実に即した適切な水準に調整することである。
結論
O&Mにおける安全は、ハザードが存在する環境の中で、それらを適切に認識し、リスクを評価し、事故を回避できる状態と定義できる。
これは「危険の不在」として安全を捉えるのではなく、「危険との関係を適切に管理すること」として安全を理解する立場である。
この視点は、O&Mを単なる技術指導ではなく、リスク管理の実践として捉え直すものである。
文献
Hill, E. & Ponder, P. (1976). Orientation and Mobility Techniques, a Guide for the Practitioner, AFB, New York.
Jacobson, W.H. (1993). The Art and Science of Teaching Orientation and Mobility to Persons with Visual Impairments, AFB Press, AFB, New York.
LaGrow, S. & Weessies, M. (1994). Orientation & Mobility: Techniques for Independence, the Dunmore Press Ltd., New Zealand.
Fazzi, D.L. & Barlow, J.M. (2017). Orientation and Mobility Techniques, a Guide for the Practitioner, Second Edition, AFB Press, AFB, New York.
蓮花一己(2000).運転時のリスクテイキング行動の心理的過程とリスク回避行動へのアプローチ、国際交通学会誌、Vol.26, No.1,12-22
Brown, I.D. & Groeger, J.A. (1988). Risk perception and decision taking during the transition between novice and experienced driver status, Ergonomics, 31, 585-597.
Turner, C., McClure, R. & Pirozzo, S. (2004). Injury and risk-taking behavior-a systematic review, Accident Analysis & Prevention, Vol 36, 93-101.
