「メンタルマップ」とは何か− 認知地図とO&Mにおける実践的な空間情報 −

英語の地図にピンが3つ留められているモノクロの写真。

「メンタルマップがない」とはどういうことか− 認知地図との関係から考える −

本稿では、視覚障害者が日常的に使う「メンタルマップがない」という表現を取り上げ、その意味を認知地図との関係から考えてみたい。

そして、「メンタルマップがない」とは認知地図が存在しないことではなく、安全に歩くために必要な空間情報が十分に構成されていない状態であることを論じる。

視覚障害者との会話では、「メンタルマップがないから歩けない」「メンタルマップがない場所には行けない」という表現が用いられることがある。

視覚障害のある友人にこの話をすると、「そうだね。頭の中に地図がないとね」と自然に相槌が返ってくることも少なくない。

しかし、その場で「では、そのメンタルマップとは具体的に何を指すのか」と尋ねると、明確な答えが返ってこない場合もある。

おそらくそこで言われているのは、「歩行に必要な空間情報をまだ持っていない」ということである。

それでは、なぜ「空間情報がない」ではなく、「メンタルマップがない」と表現されるのだろうか。

空間情報をどう使うか

この問いを考えるとき、まず重要なのは、晴眼者と視覚障害者では、歩くときに利用できる空間情報のあり方が大きく異なるということである。

晴眼者は、紙の地図やスマートフォンの地図を見ながら歩くことができる。

移動の途中で現在地を確認し、目的地との位置関係を見直し、必要なら何度でも地図を開くことができる。

つまり、頭の中の記憶だけでなく、外部にある地図をそのつど参照しながら歩いているのである。

一方、地図を視覚的に参照することが難しい視覚障害者は、そのような外部の地図を同じようには利用できない。

したがって、歩行に必要な空間情報をあらかじめ収集し、記憶し、自分の中に保持したうえで移動することになる。

視覚障害者が日常的に「メンタルマップ」と呼んでいるものは、このように歩行のために頭の中に用意され、保持されている実践的な空間情報であると考えられる。

もちろん、晴眼者も常に地図を見ながら歩いているわけではない。

例えば、公園の入口で案内図を一度見て、その後は地図を見ずに園内を歩くこともある。

そのとき頼りにしているのは、やはり頭の中に残った空間情報である。

そう考えると、メンタルマップは視覚障害者だけに特有のものではなく、晴眼者も空間を移動するときに広く利用しているものだともいえる。

「メンタルマップ」と「認知地図(cognitive map)」

ただし、視覚障害者が日常的に使う「メンタルマップ」と、心理学などで用いられる「認知地図cognitive map)」とは、必ずしも同じものではない。

一般には、「メンタルマップ」 と「認知地図」 は重なり合う概念として用いられることもあり、いずれも人が空間を理解し、記憶し、利用するための空間情報を指す場合がある。

しかし、本稿では両者を完全な同義語としては扱わない。

ここでは、「認知地図」を空間認知に関する学術的概念、「メンタルマップ」を視覚障害者が実際に歩くために保持し、利用している実践的な空間情報として区別して考える。

このように区別するのは、認知地図という心理学的概念そのものを論じることが本稿の目的ではなく、視覚障害者が日常的に「メンタルマップ」と呼んでいるものが、歩行という場面では何を意味しているのかを明らかにしたいからである。

この区別を前提に、まず認知地図という考え方を確認したい。

認知地図とは何か

「認知地図」という語は、心理学者トールマンがネズミの迷路学習を説明する中で用いたことに始まる(Tolman, 1948)。

同じ迷路を何度も通るうちに、ネズミはしだいに短い時間で出口にたどり着くようになる。

その背後には、空間についての何らかの知識や表象が形成されているのではないか。

トールマンはそれを比喩的に「地図」と呼んだのである。

ここでいう地図とは、紙に描かれた二次元の地図そのものではなく、迷路を適切に移動するために内側に形成された知識や表象を指している。

その後、地理学においても、認知地図は地理空間情報を処理し、記憶し、利用するための内部表象として捉えられるようになった。

若林(2008, p. 41)は、「認知地図が地図に類似した機能を担っていることと、それが地図のような形態をとることとは別問題と考えるべきである」と述べている。

また、「認知地図とは地図学的地図の隠喩である」(若林, 2008, p. 39)とも指摘している。

したがって、認知地図という語から、頭の中に紙の地図のようなものが広がっている様子を想定する必要はない。

他者がどのような認知地図を持っているかを直接観察することはできない。

そのため、晴眼者を対象とした研究では、地図を描いてもらう方法がしばしば用いられる。

しかし、この方法には、描画能力そのものが結果に影響するという問題がある。

視覚障害者の場合、レイズライターなどを利用して触覚的に認識できる線を描くこともあるが、紙と鉛筆を使うように自由に描画することは容易ではない。

そのため、O&Mの研究や訓練では、経路の距離や方向、ランドマークの位置関係などについて質問し、その回答から、本人が保持している空間情報の量や精度を推定する方法が多く用いられている。

認知地図という概念は本稿の議論にとって参考になる。

しかし、本稿の関心は認知地図という内部表象そのものではなく、それが歩行という具体的な場面でどのような情報として利用されるかにある。

以上のように、「メンタルマップがない」という表現は、認知地図が存在しないことを意味するのではない。

それは、認知地図という広い概念のうち、視覚障害者が歩行のために利用する実践的な空間情報が、まだ十分に収集・構成されていない状態を表しているのである。

このような視点に立てば、次に検討すべきは、視覚障害者が歩行に必要とする実践的な空間情報とは具体的にどのようなものなのか、ということである。

歩行に必要な空間情報とは何か −O&Mにおける実践的な空間情報−

文献

Tolman, E. C. (1948). Cognitive maps in rats and men. Psychological Review, 55, 189–208.

若林芳樹(2008). 地理空間の認知における地図の役割. Cognitive Studies, 15(1), 38–50.

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