
私たちは、見て、見られている
街を歩いていて、ふと誰かに見られているような気がして振り返る。
すると相手と目が合い、相手はさっと視線をそらす。
あるいは、知人と別れてそれぞれの方向へ歩き出したあと、何となく振り返ると、相手もこちらを見ている。
私たちは日常生活の中で、意識する以上に人を見ている。そして同時に、自分も見られている。
視線の相互性
「見る」と「見られる」は、ふつう一方通行ではない。
こちらが相手を見れば、相手もこちらを見るかもしれない。
「ジロジロ見ないの」と子どもをたしなめるのも、相手がこちらの視線に気づくことを意識しているからだろう。
視線を送り、視線を返される。
そこには相互性がある。
視線を返すことができない「見られる人」
では、視線を返すことのできない人の場合はどうだろう。
視覚障害者は、周囲の人から見られていても、その視線に気づかないことがある。
白杖を持って歩いていれば、人の目を引くこともあるだろう。
しかし、自分を見ている人を見ることができない。
「見られる人」でありながら、「見る人」の存在を知ることができないのである。
障害のある人が人目を引くことは、視覚障害者に限ったことではない。
しかし、見られていることに気づかず、相手に視線を返すことが難しいという点には、視覚障害に特有の非対称性がある。
視線が返ってこないことをよいことに、遠慮なく視線を送り続ける人もいるかもしれない。
「視線」は非言語的コミュニケーション
視線は、見るためだけのものでもない。
人と人との非言語的コミュニケーションの重要な一部である。
「人の顔を見て話しなさい」「相手の目を見て話しなさい」
と言われるように、顔や視線の向きは、相手に注意を向けていることを伝える。
逆に、顔を向けなかったり視線を合わせなかったりすれば、
「話を聞いていない」「無視している」と受け取られることもある。
歩いているときにも、私たちは視覚による非言語的コミュニケーションを絶えず行っている。
狭い道ですれ違うときには、互いの動きを見ながら少しずつ進路を変える。
傘を差した人同士がすれ違うときの「傘かしげ」もそうだろう。
言葉を交わさなくても、相手の動きを見て、自分の動きを調整している。
「見る人」と「見られる人」の非対称性
視覚障害者は、こうした視覚によるやり取りに十分に参加できないことがある。
相手が道を譲ってくれたことに気づかないかもしれない。
その一方で、相手からは視覚障害者の動きが見えている。
ここに「見る人」と「見られる人」の非対称性がある。
手助けの場面では、この非対称性がさらに分かりやすい。
晴眼者は、少し離れたところから視覚障害者の様子を見て、「困っているのではないか」と考えることができる。
そして、その人に近づき、声をかける。
見る人にとっては、見つけ、観察し、判断し、近づくという一連の過程がある。
しかし、視覚障害者にはその過程が見えない。
自分がしばらく前から見られていたことも、その人が近づいてきたことも知らないまま、突然、
「お困りですか」
と声をかけられる。
見る人にとって連続している出来事が、見られる人には突然の出来事として現れる。
しかも、「困っているように見える」ことと、本人が「困っている」こととは同じではない。
見る側には、自分の目で見たという確信がある。
見えているからこそ分かることがある一方、見えているからこそ分かったつもりになることもあるかもしれない。
「見守る」
「見守る」という言葉についても考えてみたい。
障害者や高齢者、子どもなどを「温かい目で見守る」という表現は、一般に良い意味で使われる。
必要なときに助けられるよう、周囲の人が注意を向けていることには大きな意味がある。
しかし、「見守る」という言葉を「見られる人」の側から考えると、少し違った姿も見えてくる。
見守る人は相手の様子を見て、「大丈夫そうだ」「危ない」「助けが必要だ」と判断する。
一方、見守られる人は、その判断の対象になる。
そこでは、見る人が助ける側に、見られる人が助けられる側に位置づけられやすい。
「見る」という行為の背景にあるもの
しかも、人を見る目は必ずしも中立ではない。
「好奇の目」「冷たい目」「偏見に満ちた目」「お節介な目」という言葉がある。
「色眼鏡で見る」ともいう。
同じ視覚障害者の行動を見ても、「一人で歩けている」と見る人もいれば、
「危なっかしい」と見る人もいるだろう。
見るという行為には、見る人自身の経験や価値観、障害者観が入り込む。
一方、見られている視覚障害者には、自分がどのような目で見られているのか分からないことがある。
好奇の目なのか、心配する目なのか、偏見を持った目なのか。
それどころか、自分が見られていること自体を知らないかもしれない。
このことは、プライバシーにも関わってくる。
「見守り」ー「見る人」と「見られる人」の非対称性
晴眼者であれば、誰かに見られていることに気づけば、視線を返したり、その場を離れたり、人目につかない場所へ移ったりすることができる。
つまり、自分が見られていることを知り、それに対応することができる。
プライバシーとは、秘密を知られないことだけではないだろう。
自分の行動の何を人に見せ、何を見せないかを、自分で選べることでもある。
しかし、自分に向けられている視線そのものを知ることができなければ、
「見られたくない」という意思を実現することも難しくなる。
この意味では、見守りも同じ問題が含まれている。
見守ることは、必要なときに手を差し伸べるための善意の行為である。
しかし、見られる側からすれば、自分の行動を見られていることでもある。
見る側に悪意があるかどうかとは別の問題として、ここにも「見る人」と「見られる人」の非対称性がある。
見過ごされがちな非対称性を認識する
だからといって、「見ない」ことが答えではない。
困っている人を見て見ぬふりをすればよいわけではないし、視覚障害者に注意を向けることが問題なのでもない。
問題なのは、見ることそのものでなく、見ることのできる側が、
「見る人」と「見られる人」の間にある非対称性に気づかないことなのかもしれない。
見る人は、見られる人が知らないうちに、その人について多くの情報を得ることができる。
その情報をもとに、「困っている」「危ない」「助けが必要だ」と判断することもできる。
しかし、その判断が本人の思いや意思と同じだとは限らない。
「見る」という行為は、あまりにも日常的なので、私たちは自分が「見る側」にいることをほとんど意識しない。
しかし、視線を返すことのできない人の側から眺め直してみると、「見る」という行為の別の姿が見えてくる。
私たちは、人を見ながら暮らしている。
そして、人から見られながら暮らしている。
多くの場合、その視線は互いに行き来している。
しかし、その視線が一方にしか届かないことがある。
「見る人」と「見られる人」の間にある、その見過ごされがちな非対称性に気づくこと。
それだけでも、視覚障害者との関係だけでなく、私たちが普段何気なく行っている「見る」ということそのものが、少し違って見えてくるのではないだろうか。
