O&Mの日本語訳についての課題
視覚障害のある人々のオリエンテーションとモビリティ(Orientation and Mobility、略称:O&M)の分野では、活動が始まって以来、O&Mの日本語訳についての課題を抱えています。
初期の訓練士養成講習会で通訳を務めた村越芳男氏は、「O&Mの意味を的確に表す適切な日本語訳が見当たらないため、仮に『歩行』という訳語を使用することにした」と述べています(村越、昭和48)。
これは、適切な訳語が見つかるまでの一時的な措置でした。
しかし、その後も訳語に関する議論が続いたにもかかわらず、「歩行」という最初の訳語が現在に至るまで使われ続けています。
一方で、この訳語が原文の内容を正確に反映されていないという意見もあり、「移動と定位」という、原文により近い訳語の使用が広がりつつあります。
「locomotion」「ambulation」「walking」
ここでは、「歩行」と訳されがちな「locomotion」「ambulation」「walking」という英単語の意味を検討します。
これらの単語は、意味で重なる部分がありながらも、それぞれ異なる意味合いを持っています。以下に、各用語の解説とそれらの違いについて説明します。
ロコモーション (locomotion)
ロコモーションは、動物の移動形態に関する用語で、人間においては歩く、走る、泳ぐなどの行為がこれに該当します。
人間の場合、ほとんどの移動が二足歩行で行われるため、ロコモーションはしばしば歩行と同義に扱われます。
また、この文脈で、「gait」(歩行)という用語もありますが、これは「歩き方」や「足取り」を指し、視覚障害によって歩き方がどのように変化するかに関する研究があります(Nakamura, 1997)。
ロコモーションは運動器(骨、関節、筋肉)に焦点を当てた移動の概念です。
アンビュレーション (ambulation)
アンビュレーションは、徒歩で場所から場所へ移動する能力を指す用語です。
医療分野で頻繁に使用され、とくに術後の患者の歩く能力について議論する際に使われます。
例えば、術後に早期に歩き始めることは、様々な身体機能の活性化に有効であるとされ、移動可能距離や時間が重要な指標となります。
ウォーキング (walking)
ウォーキングは、脚の協調動作により身体を前方に移動させる行為です。
これは、人間の基本的な移動手段であり、周囲の環境に適応し、様々な地形を移動できるようにする重要な能力です。この能力は、幼少期からの経験と練習を通じて発達します。
人間は、地面の傾斜、滑りやすさ、障害物の存在など、歩行環境の変化に対応して歩き方や姿勢を調整することができます(森、2005)。
モビリティ (mobility)
モビリティ(mobility)は、自由かつ容易に移動する能力を指します。
これにはロコモーション(locomotion)、アンビュレーション(ambulation) およびウォーキング(walking)が含まれますが、その定義はこれらの物理的な移動だけに留まらず、その容易さも含まれます。
この容易さは交通システム、インフラ、社会的または環境的障壁によって影響を受けることがあります。
アンビュレーション(ambulation)では歩くことによる移動を意味しますが、モビリティ(mobility)は他の移動モードや交通手段を含みます。
モビリティ(mobility)は、移動するための物理的、社会的、環境的側面を包括する用語です。
モビリティという語は、ロコモーション、アンビュレーション、およびウォーキングの概念を統合し、人が空間や場所をナビゲートする能力の文脈の中で使われます。
「オリエンテーションとモビリティ」を「歩行」と単純に訳すことは、オリエンテーションの部分は完全に無視されてしまうこととなり、訳語として不十分です。
その点で、「移動と定位」という訳語は、オリエンテーションの意味も明確に含まれており、より原文に忠実なため、適切であると言えます。
モビリティの意味を忠実に捉えるならば「移動の容易性と定位」という訳も考慮されるべきです。
参考文献
ロバート・ジェイクル(村越芳男訳)、失明者リハビリテーション訓練における歩行訓練指導員の役割、視覚障害者の歩行および訓練に関する参考資料集(その2)、岩橋英行監修、日本ライトハウス、昭和48年。
Nakamura T. (1997). Qualitative analysis of gait in the visually impaired, Disabil Rehabil, 19(5), 194-7.
森茂美 (2005). ヒトの直立二足歩行のメカニズムと加齢変化、Geriat. Med., 43(1), 7-14.