徒歩の生活圏

昭和30年代の家々が並ぶ静かな通りを通学する子どもの様子を、モノクロの線画で描いたものです。画の左手前には、ランドセルを背負い半ズボンをはいた子どもが家の前に立っています。木造の家の窓や玄関が見え、軒のある昔ながらの住宅の雰囲気が感じられます。家の前には一匹の犬が立ち、通りを見守るようにこちらを向いています。通りの奥には数軒の家が続き、電柱が立っています。画の右奥にはオート三輪トラックが走っています。さらに遠景には路面電車も描かれ、生活道路として使われている町の様子が表現されています。

足で覚えた街、身体に残る記憶

年齢を重ねるにつれて、子どもの頃に見ていた街の風景や、日々の移動の記憶が折に触れて思い出されるようになった。とりわけ、歩いて学校に通い、町内の店に出入りし、友達の家を訪ねていた日々の経験は、断片的な情景としてではなく、身体の感覚を伴ってよみがえることがある。

私にとって徒歩の生活圏とは、自宅から歩いて行き来できる日常の世界そのものだった。

当時はそれが特別なことだとは思っていなかった。ただ歩いて生活していただけである。しかし今振り返ると、そうした日常の移動経験は、街の構造や人々の営みを理解していく過程でもあったように思う。どこに何があり、どの道を通ればよいのかを、誰かに教えられるのではなく、自分の足で移動しながら少しずつ覚えていった。

その後、私はオリエンテーションとモビリティという分野に関わることになった。視覚障害のある人の移動や空間理解を支える仕事に携わる中で、移動とは単に目的地に到達する技術ではなく、環境との関係を築いていく経験でもあると考えるようになった。そして、自分自身の移動の原点が、子どもの頃に歩いていた街の記憶の中にあることに気づいた。

ここに記すのは、そうした個人的な記憶の断片である。特別な出来事ではなく、日常の中で繰り返されていた移動の経験を書き留めておきたいと思う。時代や場所が変わり、子どもが一人で歩く機会が少なくなった現在、かつての徒歩中心の生活環境を記録しておくことにも意味があるのではないかと感じている。
これらの回想は、自伝というよりも、移動と環境について考えるための小さな手がかりとして書いている。

記憶の中の道を辿って

団塊の世代の初めに生まれた私が小学校に入ったのは、サンフランシスコ講和条約が発効した1952年でした。校庭の一部と体育館はまだ米軍に接収されていて、金網で仕切られていました。金網の向こうでは米兵たちが作業をし、こちら側では子どもたちが遊んでいました。街ではフォードやシボレーなどのアメ車が走っていました。それらのほとんどは米軍人やその家族が乗る車でした。

私の家は横浜駅西口から徒歩10分ほどのところにありました。駅の表口は東口で、国道1号線(東海道)に面しており、交通量が多くありました。西口は裏口のような場所で、かつて米軍に接収されていた地域でした。返還はされていましたが、まだ広い野原が残り、夏にはヤゴをとって遊びました。そんな野原の中を、鉄条網によって区切られた道が駅へ続いていました。

私の家の前は横浜駅西口へ続く道で、朝夕には通勤・通学する人の流れが途切れることなく続いていました。車が通ることは稀で、時には野良犬や沿道の家のニワトリが歩いていることもありました。

小学校までは約1.5キロメートル、小学生の足で20分ほどでした。現在のような通学班はなく、それぞれが個別に通学していました。近所に住む仲のよい友達を誘って一緒に通う子もいました。通学路上には、洗い張り屋、ノコギリの目立て屋など、今では目にすることのなくなった店もありました。学校に近づくにつれ、歩く子どもが増えていきました。私の家の隣は材木屋で、週に2回、馬車が学校近くの材木置き場へ材木を運んでいました。登校時間と重なると、馬車に積まれた材木の上に座って学校へ行くこともありました。

街では牛車も見かけました。多くの場合、各家から集めたし尿を運んでいました。牛車には6〜8個の桶が積まれており、それが満杯になると肥溜めへ戻っていきました。桶に満たされたし尿は牛車の揺れでこぼれることがあり、その一部が牛の尻にかかって乾き、牛がひどくみすぼらしく哀れに見えたことを覚えています。

早朝には納豆売りが独特のラッパを鳴らしながら自転車で通りました。各家の人が家から出て呼び止め、納豆を買います。三角形の経木に詰められた納豆に好みの量のカラシをつけてもらい、家に戻りました。牛乳配達や新聞配達も自転車で行われていました。午後になると魚屋が自転車でリヤカーを引き、その日獲れた魚を売り歩きました。頼めば鱗や内臓を取ってくれました。

また、毎日ではありませんが、決まった日には20キロほどの荷物を背負った中年から高齢の女性が房総半島から海産物を売りに来ました。なじみになると注文を受けて持ってきてくれることもありました。

夜になるとラーメン屋台やあんまさんが街を流しました。それぞれが独特の笛を鳴らしながら通っていきます。私の父も月に一度あんまさんを呼び止め、家でマッサージを受けていました。そのあんまさんは同級生の父親でもありました。木製の1メートルほどの杖を携えていました。歩道のない道路でしたが、町内を流す姿に危険を感じることはありませんでした。車両交通が少なく、街の人々の目があったからでしょう。

道との境界には垣根や生垣、塀はありましたが、現在のように防犯や安全を重視した強固なものは一般家庭には少なく、隣家との境界も緩やかなものでした。子どもたちはかくれんぼをするとき、自由に家々の境を越えて動き回ることができました。道の端には側溝があり、各家の前にはゴミ箱が置かれていました。

当時、自家用車はまだ一般的ではありませんでした。スバル360が発売されたのは1958年、トヨタ・パブリカは1961年です。そのため自家用車を持つ家は少なく、ガレージもほとんどありませんでした。身近な移動手段は自転車が中心でした。私の叔父はホンダが開発した補助エンジン(当時「バタバタ」と呼ばれていた)を自転車につけていました。ホンダがスーパーカブを販売したのは1958年のことでした。

当時の小学生の行動範囲はどの程度だったのでしょうか。移動手段は主に徒歩でした。自転車は大人用を三角乗りすることはありましたが、子ども用自転車はまだそれほど普及していませんでした。横浜市には路面電車が走っていました。

私の場合、日々の通学に加え、友達と遊んだり、母に頼まれて買い物に行ったりしました。魚屋、八百屋、肉屋、豆腐屋、惣菜屋などは町内にありました。下駄屋やお茶屋は隣町まで行く必要がありました。本屋、模型材料店、写真店、床屋は町内にありました。これらの中で最も遠い目的地は学校で、どこへ行くにもおよそ1キロメートル以内でした。日々の生活は徒歩20分、距離にして1キロメートル圏内で営まれていたと言えます。

私は月に一度ニュース映画専門の映画館に行き、週に一度YMCAの児童クラブに通っていました。それらは市の中心部にあり、市電に乗って10〜20分ほどかかりました。最寄りの市電停留所は家から100メートルほどの場所にありました。

当時の子どもの生活は、徒歩によって形づくられていました。学校も商店も友達の家も、歩いて行ける距離にあり、街は歩きながら覚えていくものでした。車の少ない道路や、地域の人々の気配がある環境は、子どもが一人で移動することを自然に支えていたように思います。

今振り返ると、このような環境の中で歩きながら街を知っていった経験は、移動と環境の関係を身体的に理解していく過程でもありました。そうした経験が、後にオリエンテーションとモビリティという分野に関わることになる自分の感覚のどこかに残っているように感じます。

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