障害を「隠す」選択
市役所の戸籍係で働いていたある人は、視覚障害を持ちつつも、晴眼者のようにふるまうことに疲れて仕事を辞めました。
彼は戸籍謄本や住民票の交付業務に毎日従事していて、細かな文字を読むことが日常の一部でした。
しかし、彼の視力は進行性の眼疾患によって低下していて、晴眼者のようにふるまうことが日に日に難しくなりました。
拡大鏡のような補助具を使用すれば職務を継続できたかもしれませんが、彼は他人に障害を知られることを恐れ、
自らの意思で退職することを選びました。
二つの方向
「まるで目が見えているかのごとくふるまう」ことの背景には、多くの場合、自分の視覚障害を隠すため、
または視覚障害者という少数派集団に属したくないという気持ちがあります。
人は障害を持つと、その障害を「恥」「劣等感」として捉え、自己憐憫のような感情に陥ることがあります。
それを克服するための方法として、「障害を受け入れる方向」と、「障害を隠す方向」の二つが考えられます。
多くの人は、障害を持った後も、社会の大多数である晴眼者と同じ視点で自分を見ることが多く、そして、その障害を隠すよう努めます。
障害理解が足りない社会において「健常者」という多数派は、「障害者」という少数派を低く見る傾向があります。
そのため、かつては健常者であった人々が障害を持つようになると、視覚障害者としての自分を受け入れたくないという感情を持つことがあります。
障害者としての自分を低く見てしまう、このような社会的背景が障害を隠そうとする動機の一つとなっています。
「障害は隠す必要がない」ことを自分の心で受け入れる
予期せぬ来客が訪れた際に、とっさに襖を閉じて散らかった部屋を隠すように、障害を隠す行動は日常的に見受けられます。
しかし、これは根本的な問題の解決にはつながりません。
障害を真に受け入れるためには、「障害は隠す必要がない」という事実を、自分の心で受け入れることが必要です。
それには、社会全体として障害理解を向上させる取り組みが重要です。