
ブライトンからダウンタウンボストンを見る 1974年
ボストンへの旅立ち
Boston College (BC)からの入学許可を受けて、渡航に向けた具体的な手続きを取り始めた。なかでも学生ビザの取得は必須であり、しかも厳しい条件が課されていた。学生ビザ取得の条件の一つに預金残高の証明があり、自分名義の口座に少なくとも1万ドル、当時の為替レートは1ドル250円で、つまり250万円があることが求められた。英国商社で働いていた頃の私の月給は3万円に満たなかった。就職して4年目、夏冬のボーナスはすべて貯金していたが、それでも口座の残高は足りなかった。やむを得ず親に一時的に借金をして必要額を満たし、ビザを申請した。
右も左もわからぬまま、羽田空港から米国へ向けて飛び立った。飛行機は途中ハワイに降り、そこで入国審査を受けた。その後到着したのはロスアンゼルスである。ロングビーチに住む友人の家に2週間ほど滞在し、アメリカの空気に自分を慣らしたあと、ボストンへ向かった。
ローガン空港に到着すると、すぐに BCのHousing Officeに電話をかけた。住む場所に関する情報を得るため、担当者との面会の約束を取る必要があった。当時はテレホンカードも携帯電話もなく、公衆電話を使うにはクォーター(25セント硬貨)とダイム(10セント硬貨)を用意しなければならなかった。相手の英語は大筋では理解できるものの、肝心の日時や場所といった重要な部分がどうしても聞き取れない。何度か聞き返すうち、ついに電話を切られてしまった。
もっと静かな場所なら聞き取れるかもしれないと思い、場所を変えて何度かかけ直した。結局、空港での最初の電話から数えて4回目、町はずれの静かな一角にあった公衆電話からかけたとき、ようやく日時を聞き取ることでき、面会の約束を取ることができた。生の英語は、英会話教材のように明瞭ではなく、しかも速かった。電話で英語を話すのはこれが初めてである。それなりに自信のあった英語だったが、見事に鼻をへし折られた。
その日はBCからタクシーで15分ほどのモーテルに落ち着いた。ローガン空港からボストンのダウンタウンへ向かう途中、運転手に「なぜボストンに来たのか」と聞かれ、「ボストン・カレッジへ入学するためだ」と答えると、「あそこは授業料が高い大学だね」と言われた。その一言に、驚きと同時に、用意してきた蓄えで足りるのだろうかという不安がよぎった。
私は横浜の中心部で生まれ育った。小学校ごろまでは、「進駐軍」と呼ばれていたアメリカ兵が街中にジープを走らせていた。私たちが角型ダットサンや三輪自動車を見ていた時代に、高級将校たちは曲線的な車体のシボレーやフォードのセダンに乗っていた。そもそも、私の小学校の体育館と運動場の半分は米軍に接収されていた。運動場はフェンスで仕切られ、私たちはその向こう側で働く彼らの姿を眺めながら、毎日学校生活を送っていた。フェンスの向こうは「アメリカ」だった。市の中心部にあった米軍家族のための居留地もまた、フェンスの向こう側にあった。広大な敷地に住宅が点在し、その間には青々とした芝生が広がっていた。私の中には、アメリカ社会への憧れと、被占領国の国民としての劣等感とが、いつも入り混じっていた。
そのアメリカに勉学のために居住することが現実となり、自分を誇りに思う一方、O&M訓練士になるというこれからの道において、どうしても失敗は許されない、何が何でも目的を完遂しなければならないという思いが強く湧き上がってきた。
住む場所を探す
翌日、モーテルのすぐ前を走る地下鉄(この区間は地上を走る)のグリーンラインに乗ってBCへ向かった。終点のボストン・カレッジ駅はニュートン市に位置し、駅のすぐ前にキャンパスが広がっていた。Housing officeは、正門を左へ100メートルほど下ったところにあるオンキャパス・アパートメントビルの一階にあった。約束があることを告げ、担当者と面会した。ハウジングには三つの選択肢があった。 大学が運営するオンキャンパス・ハウジングとオフキャンパス・ハウジング、そして民間のアパートである。大学が運営するハウジングは学部学生のためだったので、大学院生だった私は民間アパートを探すほかなかった。 自家用車を持つ余裕もなかったため、地下鉄や路線バスの沿線に限定して探すことにした。
当時のアメリカは、日本とは比べものにならないほど裕福な国で、家賃も医療費も桁違いに高かった。一方、日本は高度経済成長のまっただ中で国力を増しており、私が渡米した前年、日本人留学生は「経済的に余裕のある国の出身者」とみなされ、途上国向けの経済的優遇措置の対象から外されていたことを知った。あと一年早く来ていれば、経済的負担が少し軽かったかもしれないと思ったが、致し方ないことと諦めるしかなかった。
実際にアパート探しを始めてみると、家賃の高さは想像をはるかに超えていた。2Kあるいは1DK程度の部屋でも最低140ドルはした。さらに多くの不動産業者は、「アジア人留学生」と聞くと露骨に貸すことを渋るのである。新聞やコミュニティ誌の賃貸情報を頼りに電話をかけたり事務所を訪ねたりしたが、体よく断られることが続いた。そんな中、従弟の友人のアメリカ人がボストンから車で1時間ほどの場所に住んでいることがわかり、事情を話すと、私の苦境に同情してアパート探しに付き合ってくれることになった。彼が同行すると門前払いはなくなったが、それでも家賃滞納を心配され、なかなか契約に至らなかった。最終的には、家賃2ヶ月分の保証金を前払いすることで、ようやく契約が成立した。
いま、日本で外国人居住者が増え、アパート探しの際に偏見を持たれたり過剰な保証金を求められたりするというニュースを耳にすると、当時の自分の経験と重なるものを感じる。こうした差別や偏見を思わせる出来事は、銀行で小切手口座を開設する時や、スーパーで小切手払いする際にも、何度か経験した。
最終的にアパートを借りられるまでに2週間近くかかった。その期間の半分はモーテルに滞在し、残りの半分は知り合ったばかりの同じプログラムを履修している人が住んでいたコミューンに居候した。コミューンは当時ヒッピー文化や学生運動を背景としたカウンターカルチャーの一環として一部の若者の間で流行っていた集団居住形態である。古い大きな住宅を改造し、数家族が同居し、育児や家事などを分担して生活していた。単身者もいれば、子供のいる夫婦も住んでいた。
住む場所を探すために知人の車で毎日物件や不動産屋を回ったこの時期、かなり辛かったが、街を歩き回ることで短期間のうちに大まかな地理を頭に入れることができたのは後になって大いに役に立った。
借りたアパートは、ブライトン(Brighton)市にあり、ボストン・カレッジから徒歩20分、地下鉄で2駅の場所にあった。8階建ての建物の2階で、20畳ほどの居間と10畳ほどの寝室、キッチンとバスルームが付いていた。家賃は月170ドルだった。家具は、コミュニティ誌の「不用品欄」で見つけ、ほとんどただ同然の値段で買い揃えた。冬にはスチームヒーターが入り、木製の上下窓は開け閉めにコツが要った。部屋は決して明るいとは言えず奥まで日が差し込むことはなかったが、不自由は感じなかった。当時流行っていたフリスビーを室内で投げられるほどの広さがあり、日本のアパートとは比べものにならないほど広かった。家主はギリシャ系のアメリカ人で、階下には大きなラジカセでロックを大音量でよく流す黒人と、娘と二人暮らしのシングルマザーが住んでいた。周囲には似たようなアパートが並び、学生の多い地域だった。渡米して初めて知った、当時日本にはまだなかったコンビニエンスストアが徒歩5分ほどのところに2軒あり、スーパーマーケット(Stop & Shop)は地下鉄で3駅のところにあり、生活の利便性も高かった。
