私が歩行訓練士になった訳

アイマスクをつけた金髪の女性が白杖を使って階段を降りようとしている写真。階段の3段下に男性の訓練士段を跨いで指導している。

1974年当時の訓練風景(Boston College)

私はもともと犬が好きだった。学生の頃、「犬と関われる仕事はないだろうか」と漠然と考えるうちに、盲導犬の訓練士という仕事に行き着いた。大学の最終学年になるころ、私は世界各国の盲導犬学校に手紙を書いた。当時、盲導犬訓練士の養成は徒弟制度が一般的で、「徒弟として受け入れてもらえないか」と、一校一校に問い合わせたのである。しかし、在学中に届いた返事はほとんどなく、あっても断りの言葉ばかりだった。

日本国内では、1957年に塩屋賢一さんがチャンピーを国産盲導犬第一号として育成したものの、盲導犬を継続的安定的に輩出できる体制にはまだ至っていなかった。塩屋さんも深く関わって1967年に日本盲導犬協会が設立されたが、数年後、同氏は協会と訣別し、1971年に東京盲導犬協会(現アイメイト協会)を設立している。ほかにも、1970年には北海道盲導犬協会が設立された。同時期、民間企業である東京畜犬が、英国から訓練士を招いて盲導犬訓練士養成を試みたこともあったが、会社側の事情により頓挫している。いずれにしても、当時の日本には、盲導犬訓練士を体系的に養成する安定した仕組みは存在していなかった。

やむなく私は、1970年、英国の商社に就職した。将来は海外に出たいという思いがあり、英語を使える仕事であること、そして当時の日本社会に広がっていた「猛烈サラリーマン」的な価値観が比較的薄い職場であったことが、その理由である。本社はグラスゴーにあり、日本支社には50名余りが勤務していた。支社長と専務は英国人で、書類はすべて英語、連絡手段はテレックスか国際電話であった。机の上には、一人一台ずつ英文タイプライターが置かれていた。

私は昼休みになると、そのタイプライターで再び盲導犬学校へ手紙を書いた。英国、米国、オーストラリアなど、英語圏の学校へ送り続けた。返事が来るまでに最低でも二週間はかかる時代で、返事が来ないことも多かった。届いたとしても、やはり断りの返事ばかりだった。それでも私は書き続けた。

入社して二年目、オーストラリアの盲導犬学校から、訓練生として受け入れるという知らせが届いた。心からうれしかった。やり取りを重ねるうちに、地元ロータリークラブからの支援や、新聞でホームステイ家庭を募る話まで進み、夢は急速に現実味を帯びていった。

しかしその矢先、盲導犬学校を運営している盲導犬協会の理事長から一通の手紙が届いた。「国の補助金で運営している事業のため、外国人を受け入れることはできない」という内容だった。あまりに唐突で、私は大きく気落ちした。

ところが、その手紙の末尾に、思いがけない一文が添えられていた。「米国には、視覚障害者の移動を支援する Orientation & Mobility Instructor(歩行訓練士) を養成するプログラムがある。盲導犬とは方法は異なるが、目の不自由な人の移動に関わるという点では同じである。」私はその職業を、その時初めて知った。

後に知ったことだが、1970年には、日本でも日本ライトハウスにおいて初めて O&M 訓練士養成講習会が始まっていた。そして、その講師の一人は、私が後に入学することになるボストン・カレッジ(Boston College)の修了生であった。しかし当時の私は、そのことを何も知らず、ただ新しい可能性にすがるような気持ちで、米国の養成プログラムを調べ始めた。

アメリカ文化センターで資料を探し、O&M訓練士養成プログラムがあるいくつかの大学を知った。Western Michigan University、University of Northern Colorado、Boston College、San Francisco State University──。どの大学が自分に合っているのかを判断する材料はほとんどなく、私は手紙の文面や返信の速さ、受け入れ姿勢といった、わずかな手がかりを頼りに選ぶしかなかった。やがて、最も熱心に応じてくれた Boston College に絞り、推薦状を集め、TOEFL を受験し、出願の準備を進めていった。

盲導犬訓練士の道が閉ざされた時には、すべてが終わったように感じた。しかし今振り返れば、その「行き止まり」があったからこそ、私は O&M 訓練士という道に出会うことができたのだ。あの時受け取った一通の助言の手紙が、私の人生の方向を、静かに、しかし決定的に変えたのである。

それから19年後、1991年マドリッドで開催された第6回国際モビリティ会議(International Mobility Conference)の会場で、私はある参加者の名札に目を留めた。どこか見覚えのある名前だった。──そうだ、私にこの仕事を教えてくれた、あの理事長だ。自分の記憶に自信が持てないまま、その人に近づき、恐る恐る声をかけて確かめた。間違いなく、あの時、手紙をくれた人物であった。

まったくの偶然であったが、O&M 訓練士の国際会議という場で、自分の人生の進路を決定づけてくれた人と再会できたことは、言葉にできないほどの喜びだった。私は、長い間胸にしまっていた感謝の言葉を、その時ようやく伝えることができた。

盲導犬訓練士になることも、O&M 訓練士になることも、当時の日本の状況についてほとんど知識のないまま考えていたことが、今ではよくわかる。一つには、「世界へ出たい」という強い思いが、国内の状況を知ろうとする行動を起こさせなかった。私の関心は犬であり、外国であった。視覚障害や視覚障害者について、関心を持ったことはほとんどなく、無知であったと言わざるを得ない。

今振り返ると、盲導犬訓練士養成事業も、O&M訓練士養成事業も、いずれも端緒についたばかりの時代であり、その設立にあたっては、先進国であるイギリスやアメリカから講師を招いていた。であるならば、その派遣元へこちらから赴き、直接学ぶことができたのは、結果として良かったのではないかと思う。もし当時、国内にも養成機関があることを知っていたとして、なおその未成熟な状況を前にして、この職に就く決意が同じように固まったかどうかは、正直なところわからない。

1974年4月Boston College (BC) から「教育学部の大学院生として、あなたの入学を許可します。取得を目指す学位は、教育学修士(M.Ed.)です」との手紙が届いた。

ちなみにBCのO&M訓練士養成プログラムは1960年に米国で最初に開設された大学レベルのプログラムであり、「Peripatology program」と呼ばれていた。この名称は、大学における訓練士養成プログラムの創設に大きく貢献したThomas J. Carrollが、中途失明者に移動技能を教える専門職の呼称として「モビリティ・セラピスト」ではなく、ギリシャ語に由来する「ペリパトロジスト(peripatologist)」を採用したことに由来する。これは、独学あるいは現任講習による指導者と区別し、専門的な大学教育を受けた職業であることを明確にする意図によるものであり、その学問分野は「ペリパトロジー(Peripatology)」と名付けられた。

参考資料

アイメイト協会 「盲導犬の父塩屋賢一とアイメイトの歩み」、https://www.eyemate.org/history/114/3/ 最終閲覧日2026年1月20日.

Rosenbaum, Rachel E. (2021). Caution, Blind Priest Driving: the story of Father. Thomas J. Carroll, Changing the Public’s Perception of Blindness.

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